今は・・・
オブジェの次に造形の域の広さを持つと思われる花器。 どんなカタチであれ草花を挿す口があればいいので、カタチの自由度は 自然、広まってゆきます。 素朴なものからグロテスクなものまで、その範囲の広さは相当なモノだと思います。自分の中にも端正で素直なカタチが好き、意識過剰なギンギンに尖った奇をてらうようなモノも好き、という両極端な嗜好が同居しています。 弟子の頃よくおまえはグロだなぁ!と仲間から評されました。 要するに、グロなものを造る=自身の中身もグロと言って差し支えないでしょう。そういったものばかりを造っていたわけではないにしても、 ある方向に尖がっていた僕の言動を含めた全体像が仲間にはそう映っていたのでしょう。 ある時、先輩陶工に言われました。 芸術と工芸の境目はナニで仕切られていると思う? 表現に抑制が働いているか、いないかという造り手の意識が境目なんだ。 当時はよく分からないことだったので、聞いているだけしか出来ませんでしたが時間を経た今は自分なりの考えを持っています。 芸術という言葉自体が実体のないものです。なので芸術と工芸の境目などは存在しないはずです。 そうは思っていますが・・・まあ、そう決め付けずそんな区分けがあるとするならば・・・それぞれの工程を繰り返しながら同一の製品を多数作製可能か否か。そんな線引きになるのかなぁ、と思うのです。 その意味で言えば、自分のしていることは明らかに工芸の範疇です。 ここまでは自分の立ち位置の確認。 その上で更に表現の抑制という意識の存在に触れれば・・・なるほど、抑制という意識の有無は言い得て妙だと感じます。 自分の中の「ものさし」がどんなものなのか?ここまではよし!ここからは悪し!はたまた好きか嫌いか、そんなものを基準として造るものの範囲が決まってくるのだと思います。
今でも確かに存在するグロ好きな自分ですが、そのグロを直接造るものに投影させたいか!といえば、いいえです。 時間の経過と共にある尖った感情をオブラートに包む術を知り始めてきたからでしょう。そのことが善いのか悪いことなのか、その判断は付きませんがこれこそが表現の抑制、ということの意味なのではないのかな、そう感じています。 工芸に生きる自分の「ものさし」がどう変わって行くのか。 それが楽しみでもあります。
以上、飛躍しっぱなしのつまらん独り言・・・でした。

手つき花入。

「包む」花器。
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